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ピース綾部が熟女好きな理由

熟女が今、静かなブームになっており、20代の男性の中では、真剣に30代、40代の年上のお姉さまと付き合いたいと思っている者が多くなっている。
このブームは、元々テレビ朝日の『アメトーク』の企画「熟女好き芸人」に由来している。

この手のキワモノ企画場合、出演する芸人も洒落でそのキャラを演じている場合が多いのだが、この「熟女好き芸人」の場合は違った。
出演していた芸人たちが、本当に心の底から湧き出る“熟女LOVE”を画面いっぱいに炸裂させ、そのなんとも言えないハッピーなテンションが視聴者の共感を誘い、大きな笑いを生んだのだ。

特に十数年前からキャイ~ン・ウド鈴木の熟女好きは業界でも有名で、本人も何度も番組や雑誌インタビューで熟女好きを公言していた。
だが、60代や70代の女性の優しさをいくらメディアでアピールしても賛同されることはなかった。

そんなウド鈴木の強力な援軍が、今回の「熟女好き芸人」という企画であった。
この企画で一気にキャラを確立したのが、ピース・綾部祐二であった。
ピース・綾部祐二

キングオブコント2010で準優勝を飾るも、なかなかブレイクとまでいかなったピースであったが、綾部の相方である又吉直樹は死神キャラで自分のキャラを確立した。
これに比べやや出遅れていた綾部祐二は、この熟女ブームに乗ることに成功し、個性の無い中途半端な二枚目という地味キャラから、熟女好きの“ややキモイ奴”というキャラに見事に転じることが出来た。

だが、この綾部の熟女好きというキャラは、お芝居ではなくまったくのガチキャラなのだ。
プライベートでも渋谷界隈で熟女とデートしている姿を目撃されており、業界内部でも声をかけられた熟女が多数確認されているのだ。

綾部が熟女好きになった理由だが、そこにはあまりにも美人過ぎる母親の存在があると指摘されている。
実は綾部の母親は、黒木メイサに似た美女として地元では有名な存在なのだ。
この美しすぎる母親に愛情いっぱいに育てられた綾部は、いつしか年上の美女に惹かれるようになったと言われている。

ピース綾部が芸能界のエースとなるには、母親に似た年上の姉さん女房をもらう必要があるかもしれない。
熟女の友熟女の友
どちらにしろ、芸能界で孤軍奮闘してきたウド鈴木の趣味を援護射撃し、世の中高年女性に希望を与えた綾部は、注目株であろう。

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島田紳助にロックオンされた女性たち

追い出されるように芸能界から引退した島田紳助には、これまで数多くの女性タレントとの不倫がささやかれていた。
ぼくの生きかたぼくの生きかた

しかしそのウワサとは裏腹に、スキャンダル写真が表に出たことは数えるほどしかない。
彼がツーショット写真を掲載されたのは、1989年に「フライデー」(講談社)で報じられた渡辺典子との東京滞在用マンションでのお泊まりデートのみだ。
07年「週刊文春」(文藝春秋)で、熊田曜子との沖縄旅行が報じられた際には、写真は掲載されていなかった。

数多くウワサが出たにもかかわらず、週刊誌でも取り上げられなかった紳助のツーショット写真だが、11年ぶりに今回「女性自身」(光文社)が掲載している。
お相手は20代前半のミニスカートのスレンダー美女で、撮影されたのは09年。
紳助は渡辺典子との不倫報道以降スキャンダルを過度に警戒し、番組スタッフを総動員した厳戒態勢をとることもあったというのだから、この写真の希少性は分かる。
また記事では、今まで表立って報じられることがなかった紳助の番組私物化にまで話が及び、"紳助が愛した女"というカタチで実名掲載されている。

司会者というポジションを盾に、番組の企画構成にも関わっていた紳助は、アシスタントや出演者の起用にも多大な影響力を持っていたという。お気に入りのタレントができるたびに、番組に呼んでいたようだ。
記事中では、ロックオンされ番組に招集されたタレントとして、矢口真里、安田美沙子、山口もえ、大沢あかね、そして5月12日に自殺した上原美優の名前などが掲載されている。

特に人気モデル・ヨンアなどは、スタッフを介してラブコールを送り『紳助社長のプロデュース大作戦!』(TBS系)では紳助の秘書という立場で、レギュラー出演まで決定している。
ヨンアのしあわせ時間ヨンアのしあわせ時間
それ以前にも松下奈緒を気に入り、番組内で1泊2日の淡路島デートまで企画していたというのだから、事実であれば、公私混同の極みと言えるかもしれない。

「島田紳助が、自身のお気に入りしか使わないことは有名でした。スキャンダルやウワサを振り返ると、彼が司会を務めるアシスタントやレギュラー出演者ばかりでしたね。そして、自身が飽きると干してしまうのも彼のやり方でした」(業界関係者)

08年には寵愛を受け、番組に出演していたほしのあきが六本木のバーで、「私を捨てた」と泣きながら抗議したとも報じられていた。
前出の関係者は、これから紳助の過去のスキャンダルが噴出するのではないかと話す。

「紳助が今までスキャンダルや不倫を報じられなかったのは、彼の力が大きかったからです。
会見時は、今までは好き勝手に週刊誌などで報じられても訴えることもできなかった。会見後は一般人になるため、ウソを書かれたら告訴する気持ちでいると言っていました。あれは、裏を返せば話されたら困ることが多々あるということ。
今後、紳助との逢瀬を重ねたタレントの告白本の出版があってもおかしくないですよ」(同)

9月5日に放送された『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系)で、東野幸治が島田紳助の名前を出した際、司会の羽鳥慎一は「誰!?」と名前を出さないよう懇願しているかのような強い口調で問い返すシーンがあった。

一部テレビ局では、すでに紳助の名前自体がタブーとなりつつあるようだ。
あのような引退とはいえ、一時代を築いた紳助の力は完全にはなくならないものだ、という見方も一部ではあったが、テレビ局側は早々に彼に見切りをつけたようだ。権力を失った彼のスキャンダルが、今後も週刊誌をにぎわすことは間違いなさそうだ。

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吉本興業と山口組の100年の関係

島田紳助の電撃引退から数日がたち、会見で語られなかった真実が次々と明らかになっている。
そうした中で徐々に浮かび上がる島田紳助と山口組系暴力団との親密な関係。

だが、そもそも吉本興業と山口組には、明治期から関係があったのは歴史的事実といえる。

現在、組織同士のつながりはないとは言え、100年のよしみから個人的な付き合いに発展した輩は島田紳助ひとりだけではないだろう。
そこで今回の記事では、共に天下を獲った吉本興業と山口組の因縁浅からぬ関係を紹介したい。

明治40年頃、山口組初代組長の山口春吉は、神戸の港に沖仲士としてやってきた。
沖仲士とは船舶の荷揚げ荷下ろしを行う労働者のことである。
山口春吉は、持ち前の頑強な肉体と寡黙な人柄で人望を集め、神戸にやってきて数年後、沖仲士仲間を集めた労働者組織のリーダーとなった。
山口組血風録山口組血風録
これが後の山口組へと発展していくことになる。

一方、吉本興業の出発は明治45年。
吉本興業の正体吉本興業の正体
吉本吉兵衛・せい夫妻の寄席経営に始まる。
無名の落語家や流派に属さない漫才師を一手に引き受け、さまざまな演目を披露することから人気を集め、次々と点在する寄席を買収。
起業から10年余りで、上方演芸界を掌握するほどに成長した。

神戸山口組と吉本興業の接点は、お互いにそれぞれの地域で頭角を現して来たころになる。

今からおよそ100年前に当たる大正初期、港湾労働者を集めて山口組を組織した山口春吉は、対立していた労働者組織の瓦解や三菱商船などとの大口契約という幸運に恵まれ、一気に組織の規模を大きくした。
ついに神戸港の顔役にまでなった山口春吉は、日々過酷な労働を続ける労働者をねぎらうため、浪曲や漫才といった寄席を開くことを決めた。
その依頼先が同じ関西圏で勢力を伸ばしつつある吉本興業であったのは言うまでもない。

大正14年、山口春吉の長男・山口登が山口組2代目を襲名すると、さらに吉本興業と山口組の関係は密接になる。
港湾ビジネスを先代に任せた山口登は、浪曲興行に本腰を入れ、興行主の吉本興業から用心棒や地ならしを請け負う。
このころ始まったラジオ放送の普及とともに、浪曲や漫才は全国的なブームとなり、両組織の全国進出の足場を作ったと言える。
 
さらに昭和になると両者の関係はより密接なものとなる。
東京進出を図る吉本興業は、当時浅草で人気のあった浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたいと2代目山口登に相談した。
これを快諾した山口登は、広沢虎造のマネジメントを手がける浪花家金蔵と話をつけ、一定の制約の元に、広沢虎造が吉本興業の専属となることを取り決めた。

しかしその数年後、広沢虎造は無断で下関の籠寅組(現在の合田一家)の制作する映画に出演することを決めてしまう。
これに激怒した吉本興業側は、山口登に籠寅組との調停を依頼。
山口登は、広沢虎造の映画出演を白紙に戻させることに成功したものの、その後の話し合いの際、籠寅組に襲われ重傷を負ってしまう。
昭和17年、山口登はこのときの傷が元で永眠する。

2代目の死後、戦中戦後の混乱を極める時代、山口組は組長が不在だった。
ようやく3代目に田岡一雄が襲名したのは昭和21年。
山口組三代目田岡一雄自伝山口組三代目田岡一雄自伝

実業家としても名高い田岡一雄は、先代、2代目の培ってきた芸能関係者との関わりをより深くし、昭和33年、神戸芸能社を設立。
美空ひばりなどといった昭和のスターたちの興行権を一手に握る芸能プロモーターとして活躍した。

だが、やがて時代は興行からテレビの時代へ。

有名芸能人たちのメインステージがお茶の間のブラウン管に移ると、興行先でのチケットの分配や地ならし、用心棒といった仕事を請け負っていたヤクザ組織と芸能事務所の関係は希薄になっていく。

テレビやラジオのない時代、人々の大きな娯楽であった興行寄席。
あらゆる地方に出向いて芸を披露する彼らにとって、その先での安全や安心を約束してくれる組織はなくてはならない存在だったといえる。

しかし現代社会において、ライブなどといった興行を安心して行うのにヤクザの力は必要ない。芸能関係者がヤクザと付き合うのにメリットはないと言えるだろう。

だが、そもそも芸人やタレントにも、どこか"ヤクザな雰囲気"がある。それは一般社会では生きていけない類の人々がまとうものと言える。
島田紳助の引退で、吉本興業側はヤクザ組織との関係を真っ白と示したつもりだろうが、いくら組織同士の付き合いが皆無とはいえ、似たもの同士による個人的な交際は、今後もなくならないだろう。

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